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作曲:村田雅和
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2009年12月12日

詩の解釈、書物

おそらく、今年最期の更新となります。
 
 もうすぐクリスマス。サンタクロースのモデルと云われる聖ニコラスが、貧しい人の家に金貨を投げ込んだら、干してあった靴下の中に入ったと云う伝説・・・。クリスマスに生まれたキリストの十字架上での人類の救済に対する神への懇願・・・.
 今の子供達は知っているだろうか・・・。日本は何でも商売にしてしまう国である。
私ならプレゼントとして、その人の糧になるものか、あるいは一生ものをお勧めする。流行物などすぐに捨てられるのは目に見えている。

 詩の解釈は難しい。自身も詩人であり、翻訳者でもある白鳥友彦氏が、「詩は翻訳すればその生命を失う」と森開社の翻訳詩集で語ったように、作者の本来意図するものとは別の作品になってしまう。少なくとも原詩の音韻は消滅してしまう。

何度も私のこの句を紹介したが、再びここで

黄昏の腐爛の世に散る言の葉に鏡月夜の蒼き露かな
 
            村田雅和

 ロリナの「腐爛頌」やサマンの「青き眼の半獣神」が念頭にあったことは以前書いた。いずれも、森開社で注文できる。但し、森開社は限定出版が常なので、手に入るか否かは不明である。あるものは定価の倍以上の古書価が付く。アルベール・サマンの青いマーブル装の本は殆ど手に入らないと思っていい。
 
さて、全て平仮名表記すれば、こうなる。

たそがれのふらんのよにちることのはにかがみつきよのあおきつゆかな


 ここで、マラルメがレセップス事件に関して書いた「グリザイユ」という記事を思い浮かべることが出来たなら、あなたは私以上の玄人だ。なお、私はフランス語を学んだことがない。

さて、手の内を明かすとこうなる。

2重の意味を持っていることがわかると思う。

たそがれ=古くは「たそかれ」すなわち「誰そ彼」、元来、「誰だあれは」の意味で、夕暮れにおいて人の顔が判別しにくくなる時間帯を指すようになった。

ふらん=フランスの通貨フランあるいはフランスそのもの

ことのは=言葉、事の端

かがみ=鑑、あるいは鏡

「誰だあれは、レセップス?」と愚劣な新聞記者どもは、一体どれだけ騒ぎ立てたことだろう。自分たちのことは棚に上げておいて、人の悪口ばかり書き立てる新聞記者やジャーナリストのことを、ドイツ語では「日給取り」というのを、ショーペンハウエルが「読書について」で語っている。実に相応しい言葉だ。テレビで「格差はいかん」とか抜かす連中が、肉体労働従事者に比べ、かなりの高収入なのはなぜだろう。私自身は所得が低くても、金持ちが出資しないと経済は成り立たないことを知っているので、間違ってもそんな馬鹿げたことは言わない。

 フランス世紀末の最大の金融事件であるレセップス事件。取り巻き連中の吐く身勝手な言葉、すなわち、成功時には賞賛の言葉を、そして失敗した時には、その同じ人物に対して散々罵詈雑言を並べ立てる身勝手な人間の本性は、いつの世においても変わらない。月はそんな露のように虚しい世界を鑑みて嘆いているのだろうか・・・。現代においても同じだ。

 なお、「グリザイユ」とは油絵の伝統的な下絵の技法であり、マラルメの友人達であった印象派の画家達は(おそらく、修業時代を除けば)決して使用しなかった。ドガは使用していたかも知れないが(私はドガの絵の実物を見たことがないし、画集すら持っていないのでわからない)、ドガはアングルに傾倒し、技法的には決して印象派ではない。

 世紀末になると象徴主義的あるいは、さらにデカダン派が台頭してくるが、私の中で世紀末はまだ終わっていないし、多くの人も同意することだろう。時はまさに腐爛の世であり、政界やマスコミでは罵詈雑言が散りばめられ、私自身はこの世を照らす月(鏡月)を鑑みながら露のような儚さを憂いている、おそらくはダンディの一人である。

 黄昏の金と青のコントラストによる豪奢な自作の句を解説してみましたが、いかがでしょうか。シャルル・ノディエらの書物に関するダンディな考察は、私の作品のもうひとつの発想源です。書物の為の書物。ノディエは書誌学者、愛書家としての観点から、書物に関して語りましたが、私はあくまでも美術愛好家であり、ノディエのようなビブリオマニアではないので、また違った観点から作品を創ることになるでしょう。

 アレクサンドル・デュマの作品で「稀覯本余話」というものがあります。デュマ自身の回想を綴ったもので、デュマが出逢う愛書家は、名前は出てこないがノディエその人であり、デュマは「自分は決してビブリオマニアにはなりませんから」というノディエに対する宣言を、後に見事に裏切り、ノディエの指導によって、熱狂的なビブリオマニア(書痴)に変身し、ノディエと連れ立って、古書漁りのためにセーヌに頻繁に出没していたという。

 書物というのは恐ろしい。ノディエの作品や、ユイスマンスの「さかしま」などを読んで、熱狂的なビブリオマニアになった人が歴史上何人いたことだろう。犯罪小説や官能小説を読んで、愚かにも実際の行為に及んだ者、あるいは聖書を含む神学の本を手にし、敬虔な信仰者となった者、ウォール街ではよく知られているマイケル・ルイスの「嘘つきポーカー」を読んで辣腕トレーダーになった者・・・。なんと某書のおかげで自殺した者までいるという話ではないか!
 マラルメはドレフュス事件に関して意見を求められた時に「私は書物以外の爆弾を知らない」と言ったが、単なる気取り家の言葉ではないのは明らかだ。書物、言葉の影響力の恐ろしさゆえに、古来より支配者達は、被支配者に文字を教えないように(団結による政府転覆を防ぐため)、そして禁書処分というものを施したのである。

 ノディエは書物の氾濫について嘆いたが、私も同じである。ただ、理由は異なるとは思うが、本質的には彼と同じかも知れない。幸か不幸か、ノディエと私は別の国、別の時代に生まれた。ただそれだけのことに過ぎない。

月を見ながら私の曲をどうぞ。


作曲:村田雅和

音楽は素人なので未熟ですが、冒頭の私の句に感銘を受けたという方がおみえでしたら望外の喜びです。

作品を創る時、「これはどういう意味か」ということを作品の中で問う。これが私の創作姿勢であり、作品が少ない理由であります。
posted by 雅 at 23:54| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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