はじめに
芸術愛好家の皆様、ようこそお越し下さいました。ごゆっくりどうぞ。
♪オープニング
♪をクリックすると曲が流れます。
 尚、本サイトの画像は、自作もしくはPublic Domain(下記の青字リンク先をご参照下さい)になった過去の巨匠の作品の画像を使用。WikiPediaからお借りしています。各記事の画像をクリックすると拡大表示されます。
     ・・・過去の偉大な巨匠たち、先人たちに敬意を表して・・・
                                     
♪感傷的な主題と展開
作曲:村田雅和
をクリックすると曲が流れます。

2010年01月03日

偉大なるマエストロに捧ぐ詩

偉大なるマエストロ
    ステファヌ・マラルメに寄せる夜想曲


                    村田雅和

無常なる時の協奏曲・・・
唯独りの観客たる私は
湖畔の寒空に震えていた
涙に沈んだ月影は
昔日の溜息に揺らめいて
夜風の甘い囁きが
金と青の快い調べを奏でていた・・・

いとも高貴なる漆黒の夜空 、
思索の沼辺たるインクの壷よ!
語ってはくれまいか・・・
月はなおも湖上に揺らめいて
貴女の想いが私のものとなる時、
わが夢は異国の鳥として羽ばたけよう!

微睡みの水鏡に写すわが想い・・・
貴女の眼差しに照らされし
無数の捉えがたき言の葉は
蒼い陰鬱なわが心中に
昔日の揺かごの中で金色に煌めく・・・

古より時を刻みしわが月よ !
永遠の乙女たる貴女の微笑みが
そして甘い囁きが
異国の羽根ペンを羽ばたかせ
わが空虚なる夜空に
無数の星を散りばめる魂を
もう一度吹き込んでくれたのだ・・・



 多忙だった年末年始を超えて、1日休みをもらい、究極なる書物の完成を目指して、マラルメとノディエを読んでいます。ビブリオマニアで、夢と狂気の世界を描いて、幻想文学の祖となったノディエ、究極の書物を目指したマラルメ。そして私は、偉大なマエストロ達を研究する修行の身です。
posted by 雅 at 22:27| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月12日

詩の解釈、書物

おそらく、今年最期の更新となります。
 
 もうすぐクリスマス。サンタクロースのモデルと云われる聖ニコラスが、貧しい人の家に金貨を投げ込んだら、干してあった靴下の中に入ったと云う伝説・・・。クリスマスに生まれたキリストの十字架上での人類の救済に対する神への懇願・・・.
 今の子供達は知っているだろうか・・・。日本は何でも商売にしてしまう国である。
私ならプレゼントとして、その人の糧になるものか、あるいは一生ものをお勧めする。流行物などすぐに捨てられるのは目に見えている。

 詩の解釈は難しい。自身も詩人であり、翻訳者でもある白鳥友彦氏が、「詩は翻訳すればその生命を失う」と森開社の翻訳詩集で語ったように、作者の本来意図するものとは別の作品になってしまう。少なくとも原詩の音韻は消滅してしまう。

何度も私のこの句を紹介したが、再びここで

黄昏の腐爛の世に散る言の葉に鏡月夜の蒼き露かな
 
            村田雅和

 ロリナの「腐爛頌」やサマンの「青き眼の半獣神」が念頭にあったことは以前書いた。いずれも、森開社で注文できる。但し、森開社は限定出版が常なので、手に入るか否かは不明である。あるものは定価の倍以上の古書価が付く。アルベール・サマンの青いマーブル装の本は殆ど手に入らないと思っていい。
 
さて、全て平仮名表記すれば、こうなる。

たそがれのふらんのよにちることのはにかがみつきよのあおきつゆかな


 ここで、マラルメがレセップス事件に関して書いた「グリザイユ」という記事を思い浮かべることが出来たなら、あなたは私以上の玄人だ。なお、私はフランス語を学んだことがない。

さて、手の内を明かすとこうなる。

2重の意味を持っていることがわかると思う。

たそがれ=古くは「たそかれ」すなわち「誰そ彼」、元来、「誰だあれは」の意味で、夕暮れにおいて人の顔が判別しにくくなる時間帯を指すようになった。

ふらん=フランスの通貨フランあるいはフランスそのもの

ことのは=言葉、事の端

かがみ=鑑、あるいは鏡

「誰だあれは、レセップス?」と愚劣な新聞記者どもは、一体どれだけ騒ぎ立てたことだろう。自分たちのことは棚に上げておいて、人の悪口ばかり書き立てる新聞記者やジャーナリストのことを、ドイツ語では「日給取り」というのを、ショーペンハウエルが「読書について」で語っている。実に相応しい言葉だ。テレビで「格差はいかん」とか抜かす連中が、肉体労働従事者に比べ、かなりの高収入なのはなぜだろう。私自身は所得が低くても、金持ちが出資しないと経済は成り立たないことを知っているので、間違ってもそんな馬鹿げたことは言わない。

 フランス世紀末の最大の金融事件であるレセップス事件。取り巻き連中の吐く身勝手な言葉、すなわち、成功時には賞賛の言葉を、そして失敗した時には、その同じ人物に対して散々罵詈雑言を並べ立てる身勝手な人間の本性は、いつの世においても変わらない。月はそんな露のように虚しい世界を鑑みて嘆いているのだろうか・・・。現代においても同じだ。

 なお、「グリザイユ」とは油絵の伝統的な下絵の技法であり、マラルメの友人達であった印象派の画家達は(おそらく、修業時代を除けば)決して使用しなかった。ドガは使用していたかも知れないが(私はドガの絵の実物を見たことがないし、画集すら持っていないのでわからない)、ドガはアングルに傾倒し、技法的には決して印象派ではない。

 世紀末になると象徴主義的あるいは、さらにデカダン派が台頭してくるが、私の中で世紀末はまだ終わっていないし、多くの人も同意することだろう。時はまさに腐爛の世であり、政界やマスコミでは罵詈雑言が散りばめられ、私自身はこの世を照らす月(鏡月)を鑑みながら露のような儚さを憂いている、おそらくはダンディの一人である。

 黄昏の金と青のコントラストによる豪奢な自作の句を解説してみましたが、いかがでしょうか。シャルル・ノディエらの書物に関するダンディな考察は、私の作品のもうひとつの発想源です。書物の為の書物。ノディエは書誌学者、愛書家としての観点から、書物に関して語りましたが、私はあくまでも美術愛好家であり、ノディエのようなビブリオマニアではないので、また違った観点から作品を創ることになるでしょう。

 アレクサンドル・デュマの作品で「稀覯本余話」というものがあります。デュマ自身の回想を綴ったもので、デュマが出逢う愛書家は、名前は出てこないがノディエその人であり、デュマは「自分は決してビブリオマニアにはなりませんから」というノディエに対する宣言を、後に見事に裏切り、ノディエの指導によって、熱狂的なビブリオマニア(書痴)に変身し、ノディエと連れ立って、古書漁りのためにセーヌに頻繁に出没していたという。

 書物というのは恐ろしい。ノディエの作品や、ユイスマンスの「さかしま」などを読んで、熱狂的なビブリオマニアになった人が歴史上何人いたことだろう。犯罪小説や官能小説を読んで、愚かにも実際の行為に及んだ者、あるいは聖書を含む神学の本を手にし、敬虔な信仰者となった者、ウォール街ではよく知られているマイケル・ルイスの「嘘つきポーカー」を読んで辣腕トレーダーになった者・・・。なんと某書のおかげで自殺した者までいるという話ではないか!
 マラルメはドレフュス事件に関して意見を求められた時に「私は書物以外の爆弾を知らない」と言ったが、単なる気取り家の言葉ではないのは明らかだ。書物、言葉の影響力の恐ろしさゆえに、古来より支配者達は、被支配者に文字を教えないように(団結による政府転覆を防ぐため)、そして禁書処分というものを施したのである。

 ノディエは書物の氾濫について嘆いたが、私も同じである。ただ、理由は異なるとは思うが、本質的には彼と同じかも知れない。幸か不幸か、ノディエと私は別の国、別の時代に生まれた。ただそれだけのことに過ぎない。

月を見ながら私の曲をどうぞ。


作曲:村田雅和

音楽は素人なので未熟ですが、冒頭の私の句に感銘を受けたという方がおみえでしたら望外の喜びです。

作品を創る時、「これはどういう意味か」ということを作品の中で問う。これが私の創作姿勢であり、作品が少ない理由であります。
posted by 雅 at 23:54| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月27日

音楽制作

 私は楽器を演奏出来ないのに、無謀にも作曲らしきものを始め、愚かにも標題音楽という(更に愚かにも歌曲というジャンル)ジャンルから入ってしまったことを今更ながら後悔している。古典的な絶対音楽はおろか、簡単なソナチネすら作れないというのに・・・。

・・・ということで、絶対音楽を作れない以上、作曲は暫く諦めた方がいいように思います。安易な作品は、もはや作る気がありませんので・・・。勿論、純粋詩を目指しているので、作詞はしない。

自己最高作品で、私の20代最期の誕生日のために作ったテーマソング『Fantasy』をどうぞ。


作曲:村田雅和

この作品だけは自分でもいいと思う。本物のオーケストラの演奏ならどんなにいいだろうと思いながら聴いています。
posted by 雅 at 02:25| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

書籍の氾濫

・・・やっと体調が元に戻りました。もともと体が丈夫ではないので、煙草も吸わないし、酒も飲まない。当然ながら(というより、ポール・サミュエルソン氏(ノーベル経済学賞受賞者)流に云えば、「馬鹿馬鹿しい」ので)街で遊び歩かない(サミュエルソン氏によると、仕事が終わっていまだに遊び歩くのは日本人だけだ。最近のアメリカ人はビジネススクールに行ったり、スポーツクラブなどに行ったりして自己研鑽するらしい。技術を産み出す為の学力(数理的能力)低下、税金の複雑さ、規制の歪み(多くは本来の役割を果たさず特権的利益の温床となっている)と並び、日本経済が堕ちた理由の一つだ)。勿論、食事は好き嫌いしない。米は玄米、野菜を多く採っている。
  ・・・なのに、駄目ですね。皆様も気を付けましょう。


 19世紀の最も有名な書痴、書誌学者にして幻想小説家のシャルル・ノディエはユゴーより20歳くらい年長の世代で、当時すでに書物の氾濫という事態を予見して憂いたわけですが、今日の書籍の氾濫という事態を見たら、彼なら卒倒しかねないでしょう。書物が「投資」(投資とは教育などの人的投資や、企業に於ける設備投資など『糧』となる意味であって、投機ではないではなく、「消費」される憂うべき時代・・・。所謂"How to?"物が売れて(勿論、役に立つ物もあるが、崇高なる学術書、専門書と比較すると浅薄なものでしかない)、本質的価値ある物が捨てられる時代・・・。書物はできるだけ簡素なフランス装にし、心から気に入った書物をモロッコ革などで製本する伝統のある(今もか?)フランス人を見習いたいものです。

 ノディエらやランゲの所謂『ダンディな』書物論を読むと、書物の現在の状況がますます気に入らなくなります。書物でも美術品でも身の回り品でも、『一生の友』でありたいものだ。読んだその時わからなくても、10年後にわかることだってあります。それは、読者人たる私たちの人生における過程での経験や心の変化が、書物および作者に対する共感を深めるのでしょう。
 
 森開社の関係者の調査で、偉大な詩人でありながら、最期は無名の人で最近(すなわち、著作権は生きています)亡くなった山中富美子氏のことが次第に明らかにされてきました(『螺旋の器』参照)。おそらく経営的に不利であろう小部限定出版を常とし、作家に対して深い理解のもとで出版される森開社の書物。森開社の造本理念には共感が持て、私も数冊(所謂特装ものではなく、安価なフランス装のものですが)、所有しています。一見地味ながら瀟酒な装幀の書物。大量生産、大量消費(すなわち、大量廃棄)の恥知らずな現代の日本に於いて、書物や造本に於けるダンディズムが密やかに生きていることを嬉しく思います。
 
 書物は一個の芸術作品であるべきだ。残念ながら、身の回り品や音楽CDなどについても同じですが、単なる消費物に堕ちてしまった。流行廃りという馬鹿げた考えが、ものを大切にしなくなる。環境を破壊し、嘗てありふれた物でさえ、最期には最も有り難くない形で貴重品になってしまう。

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 ちなみに、本サイトでは書評は一切しない方針(当然、音楽理論に詳しくない私にとっては、真剣な考察の対象になり得ない音楽評も)。好きな作家の作品名を挙げるに止めましょう。同じ書物を同じ人が読む場合でも、年齢や経験によって価値が異なってきて何ら不思議はありませんし、百害あって一利無しだと思われますので・・・。哲学者ショーペンハウエルが云うように、評論家というの(ドイツ語で日給取り)は必要ないというのが私の持論。なぜ専門家にならなかったのか(否、おそらくなれなかったのだろう)?

 マスコミや評論家、常識を鵜呑みにせず自分で探求せよ。出来なければ、専門家にその方法を学ぶことだ。さもなくは、一切口出ししないことだ。異端者は新しい真実を語る為(そして、常識とはあまりにも違う為に、あるいは都合が悪い為に避難される)に時折現れるのだ。常識は真実の近似であってイコールではない。事実は屢々誇張され、あるいは捏造される。故田中角栄元首相が嘗てこう言いました。「新聞で信用出来るのはテレビ欄と株価欄だけだ」
 
 専門家で無い以上、沈黙こそがもっとも懸命に思われます。なので、ここでは、芸術しか語りません。どんな芸術が最高であるかという不毛な内容については、当然ながら私の語る所ではありません。

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 最近、以上のような要らないことをあまりにも書き過ぎました。実践している芸術家、学者、ビジネスマン、教師、思想家、その他諸々の人たちにとっては、あまりにも馬鹿馬鹿しい内容なので、もうこのような馬鹿げた内容は書きません。

 これからは、自身の作品、あるいは過去の芸術家の作品の紹介に止めようと思います。更新率悪いですけど・・・。

 ちなみに、最期に一言だけ文句。Microsoft社のWindows戦略、SunのSolarisを見習って何とかならんか? Apple社のMachintoshのアップグレードですら、そんなにコストはかかりませんぞ!
posted by 雅 at 01:20| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月11日

現代写実主義

 私は無謀にも、かつては画家になりたいと思っていました。油絵を描き始めたきっかけは、クロード・モネの睡蓮を美術館で見てからで、今でも印象派のファンです。一方、印象派に批判的だったブーグローなどアカデミズムの作家も好きで、「印象派を非難したから、アカデミズムは嫌い」「アカデミズムが好きだから印象派が嫌い」とか特に芸術に対するイデオロギー的な(つまらないもの)ものには関心がありません。西洋美術が好きですが、琳派も好きだったりします。

 最近、日本の美術界で、再び写実主義が流行しています。野田弘志先生は有名ですし、古吉弘先生、塩谷亮先生、鳥越一穂先生のHPにはリンクをさせていただいています。特に、古吉先生と、鳥越先生のブログでは、油彩画の制作過程が写真で順を追って解説されていますので、非常に勉強になります。

 サイトトップのリンク集にあるリンク先をクリックしてみてください。驚愕の写実主義の世界が広がります。実物を目にしたことがないし、制作過程を目の前で見てみたいものです。
 数年来より構想している父(故人)の肖像画を未だに描いていません。絵を描くのはあまり得意ではないし(楽器を演奏できないので音楽は問題外、詩は難しい。本来は油絵なのに苦手だという。だったら何が得意なんだ・・・という突っ込みは無しにして)、自分をモデルにして技法を身につけるしかありません。

 ちなみに、私の描いた絵です。デジタルカメラを持っていないので、コンピュータのタッチパッド(マウスは線が邪魔なので着けていない)とフリーウェアのJTrimでぼかして、自分の画風を再現してみました。
ji.JPG
 
コンピュータでは、水面の表現が難しすぎます。描いていてつまらないし・・・。やはり絵は油絵に限りますね。アクリルだとどんなにうまい画家の作品でも、同じ画家の油絵と比較すると(材質的にどうしても)迫力に欠けるし。

 クラシカルな絵画を描く人はクラシック音楽好きが多い。私が好きなのはコレッリ、ドラランド、ハイドン、メンデルスゾーン、ブラームス、ショパン・・・。しかし、宇徳敬子さんや舘ひろしさんの曲も好きだったりする。和楽器の曲もいいですね。

こんな珍曲(汗)、正統派クラシックの人は多分作らない。サンサーンスが自分の敵対者達を徹底的にからかって作った『動物たちの謝肉祭』は例外中の例外。彼の他の曲は完成度が高く、正統派そのものです。



ハバネラのリズムに和風の風味を利かせた曲。笑わないようにといっても、珍曲過ぎて、自分で笑ってしまう。私には音楽は駄目だ。ピアノが弾けないので、制作は度を越して極端に遅いし、ここ一年何も作っていません。間違っても依頼しないように。というより完成させる自信が全く無いので受付しません(笑)。

絵:曲:村田雅和
posted by 雅 at 15:17| 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月10日

書物について

 意外と思われるかもしれませんが、私の文学歴はここ2年くらいで、非常に浅い。少年時代に読んだファーブル昆虫記(動物や植物好き)や好きな芸術家やフィッシャーブラックなどの経済学者に関する伝記を除いて、文学とは殆ど無縁でした。小説には殆ど興味が持てないし、当初(そして今も)、私は所謂読書家ではなかった。覚えているのは小学生の時に読書感想文の宿題に用いた中勘助の『銀の匙』くらい。これは、作者自身の少年時代の思い出を綴ったもので、この私が感動した数少ない作品。何度も読み返した記憶があるのですが、今は手元にありません。岩波文庫でもう一度探して読んでみたいと思います。

 そんな読書家と云えない私が好きなのは、大学で学んだ経済学関連や、画集(私は本来、美術愛好家)を除くと、詩集と書誌。もっとも詩集も好きな詩人は象徴派周辺に限られていますが・・・。

 書誌に対する興味はユイスマンスの『さかしま』の影響。私が知っている詩人では、ポーやボードレール、リラダン、ヴェルレーヌ、そしてこの小説の主人公、デ・ゼッサントが詠む詩で有名になるマラルメが、そして絵画ではゴヤ、モローなどが賛美されています、ユイスマンスは自然主義文学から出発し、『さかしま』で自然主義作家のゾラに非難され、『彼方』で悪魔主義文学に走り、やがて『大伽藍』でキリスト教文学者として、そして最後は法衣を纏って最期を迎えたという異端の作家。異端の文学が存在するなら、正当な文学を定義する必要がありますが、その点は素人の議論するところではありません。ユイスマンスは(中期の作品は)清廉な方には決してお勧めできる作家ではありませんが、一人の人間における善と悪のパラドックスを考察する上では、研究すべき作家の一人なのかもしれません。

 私自身の、「究極の書物」をいつかものにしたいという思いは、『さかしま』の他に、マラルメの詩やマラルメに関するいくつかの研究書を読んでから。マラルメ以前に既に、『聖書』や『コーラン』、ダンテの『神曲』が世界を再構築した(あるいはその成り立ちを記述した)究極の書物として存在しますが、マラルメは急死したために完成には至りませんでした。
 マラルメの書物を書くという行為、「2」という数字に関する深い考察。有名な『半獣神の午後』は二人のニンフ(すなわち綴じられたフランス装の書物)と半獣神との現実にあったか否か判然としない、しかし二人のニンフをものにしたい半獣神の夢(半獣神=マラルメ)を語った長編詩。詩の中で、「シチリアの岸辺よ 語ってくれ」(つまり、クリスタル製のインクの壷から、白い紙にインクで思索そのものを選び抜かれた言葉で記述してくれ)と半獣神は願っています。ニンフたちを白鳥たちと見紛うのは、マラルメ自身が詩を書くときに羽ペンを使用していたのだと推測できます。

参考:
『書物について』:清水徹、岩波書店 

 個人的には。コンピュータは便利だと思いますが、書くという行為に対する思索の妨げになると思っています。まず、羽ペンとインク壷を用いて、白い紙に記述する行為自体を壮大な世界に発展させる偉大なる作品は生まれない。羽ペンの他、万年筆もいいかもしれません。

いずれにせよ、使い捨てのものから偉大な作品が登場するとは思えません。

 私の詩作品の重要なテーマの一つで「均衡」という概念(未熟さゆえ、必ずしも厳密に適用されてはいないが)を植え付けたのは、数理経済学や金融工学。正規分布とファットテールに関する議論。「均衡」という語の響きに「鐘」を想起するのは、正規分布が釣鐘分布(ベルカーブ)とも呼ばれるから。世界はクラシカルな秩序を備えたものか、あるいはきわめてバロック的か・・・

 マラルメがレセップス事件に関して新聞に投稿した、『グリザイユ』という金融に関する美しい文章からなる考察があります。今更ながら、大学時代にフランス語を学んでおけばよかったと後悔しています。

 私の「時間」に対する考察は既に、未熟ながら『夜想曲』、『雨に打たれて』で作品になりました。詩を書くという行為は、私にとって、絵を書くのと同様に楽しみでもありながら非常に厄介で、計画ばかりが先行し、作品化できない難しいものです。

 白鳥友彦氏が翻訳した、ピエール・ルイスの涙の出るほど美しい詩『水の黄昏』に感銘を受ける。

有名な愛書家に小説家で書誌学者のシャルル・ノディエがいます。
posted by 雅 at 01:17| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月09日

私のコンピュータ環境: サン・マイクロシステムズのOpenSolaris

 Windowsユーザーが多い日本(ある作曲家の話だとイギリスではMacが多いらしい)では、当サイトを訪れた方で、Solaris,Linuxとは何かと思われる方がおみえかもしれません。UNIXで検索してみて下さい。
ちなみに、安定性とセキュリティ面でSolarisに比肩しうるバークレーのFreeBSDも試してみたいのですが、容量的にマルチ・ブートするだけの余裕がありません。自作PCか、中古PCで試す方法が考えられますが、予算も部屋のスペースもありません。

 私はもともとはWindowsユーザーでしたが、オープンソースと企業戦略に関するドキュメンタリー番組を見てから、Linuxのさまざまなディストリビューションを物色し始め、最終的に、Fedora10(Macとデュアルブート)と、サン・マイクロシステムズ(以下、Sun:プログラミング言語Javaを開発し、Webアプリケーションや携帯電話に採用され、誰もが知らない間にお世話になっている)のSolaris(インストールに何度か失敗して挫折(汗))のオープン・ソース版であるOpenSolaris(Windowsとデュアルブート)を併用しています。Solarisの管理技術はシステム管理者としては当然の技術なので、システム管理者を目指す方は、こちらの動画をどうぞ。



 初期状態において、デスクトップシステムとしては、MacやWindows、Linuxに劣るような感がありますが、さまざまなアプリケーションを追加して、かなり使える環境になりました。動作はWindowsやMacより軽快で、非常に安定しています。mp3は聴けるようになりましたが、mp4(Fedoraでは成功)やDVDの動画再生は成功していないので、無料の動画コーデックを物色中(有償のものを使用する方法もあるし、その方が簡単)。システム自体は安定していますが、初心者には結構難しいです。

 SunのSolarisデスクトップシステムは、かつては2〜300万円もするような非常に高価なものでしたが、今ではパソコン本体さえ用意すれば、DVDメディアを無償で利用できます。安定性やセキュリティ面での堅牢性では評価が高く、サーバー系、金融系、エンジニアリング、研究機関に多く採用されていますが、Sunは今回の金融危機で(当然、金融機関の需要が多い)オラクルに買収され、関係者の間で強い衝撃が走りました。オラクルの傘下に入った後でも、今までどおりのサービスを続けていくということで、私自身も安心しました。

 ちなみに、ネット接続は殆ど、OpenSolarisかFedora。rootパスワード(管理者パスワード)さえ破られない限り(当然ながらパスワード管理は自己責任で。普段はユーザーアカウントでログインし、ユーザーパスワードを入力してログインする仕組みになっています。パスワードを忘れたら、ログインすらできないので、シングルユーザーモドで機動し、rootで設定し直す必要があります。)、ウイルスに感染する心配はありません。普段はインストール時に作成したアカウントでパスワードを入力して、ログインし、システムの変更や、アプリケーションの追加時には必ず、rootになる必要があります。
(勿論、サーバーを構築する時は、外部からの侵入者を防ぐ為に、セキュリティに関する詳細な知識が必要。特に、デスクトップシステムをWindows、サーバー機をSolaris、あるいはLinuxとする場合は、SolarisやLinuxがウイルスに感染しなくても、Windowsにはセキュリティソフト(自身でウイルスを退治できるユーザーは別として)が必要です。) 

  Windows7が出たという話ですが、仕事以外(あるいは、仕事に使うために家で試す)で使用することはまずないので、全く興味がわきません。予め何もかもが用意されているより、自分で環境を作っていく方がコンピュータに強くなれますので。しかも、(WindowsやMacを使うより数万円くらい)安上がりですし(笑)。

サン・マイクロシステムズ(YouTube)

サン・マイクロシステムズ
(サイト)

zfsファイルシステム、Dトレースなどサーバー用途として堅牢無比を誇るSolarisを開発。従来は非常に高価だったさまざまなソフトウェアをオープンソース化し、有償のサポートを充実させる戦略に転換。エンジニアにはSunという会社そのものに対するファンも多い。プログラム言語Javaは、コンピュータ以外にも携帯電話のアプリケーションや家電にも組み込まれ、名前をご存じない方も多大な恩恵を受けているはず。
 90年代は技術的に他社を圧倒し続けていたが、資金面では必ずしも規模が大きい企業とはいえない。サブプライム危機の煽りを受け、オラクルの傘下に。内外で強い衝撃が走った。

ちなみに私自身もSunのファン。Solaris以外にもOpenOffice.Org、Javaなど、いろいろとお世話になっています(嬉)。


オラクル
(Oracle)

さまざまなビジネスソリューション、データベースならOracle(私は身につけていないが、もはや常識)。今回の金融危機でSun側がOracleに買収を持ちかけ傘下に(但し、当記事記入時点、完結には至っていないらしい)。Oracleマスターはこれからの企業で非常に有望。どなたか近くにいないものか。そして私にご教授下さい。

公言しまくっているように、私はコンピュータは素人なので・・・。まあ、言ってしまえば、プログラムすらできないユーザーは所詮、素人です。(私も(泣))
posted by 雅 at 22:57| コンピュータ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月06日

OpenSolarisで本サイトのflashコンテンツを聴くには

 私自身、LinuxやOpenSolarisについては初心者ですが、(私を含め)全くの初心者が楽しみながらUNIXの世界に触れていけるよう、当サイトのmp3コンテンツをお聴きいただけるよう、その方法をお伝えいたします。

以下、OpenSolaris初心者を前提とした解説
Linuxでもダウンロードファイルが異なる以外、方法はさほど変わらないと思います。

どんなOSでも、インストール直後はflashコンテンツは扱えない(企業の動画、YouTubeなどの視聴に必須)ので、flashplayerをインストールしなければなりません。WindowsやMacではリンク先をクリックして、簡単にインストールできますが、OpenSolarisの場合は手動でインストールしなければなりません。

実行にはrootになる必要があります。

1.flashplayerをダウンロードし、flash_player_10_solaris_x86.tar.bz2を展開する。
2.flash_player_10_solaris_r32_18_x86を開き、libflashplayer.soというファイルを準備する。
3.ファイルシステム→usr→lib→firefox→pluginsと順にクリックして、libflashplayer.soをここに移動すれば、flashコンテンツを視聴できます。

 OpenSolarisはサン・マイクロシステムズが開発したSolarisのオープンソース版。統合開発者環境であるNetBeansやSun Studio(現在はユーザー登録すれば無償。以前は8万円くらいだったらしい)が無償で利用できます。zfsファイルシステムで名高く、サーバー管理者、金融、エンジニア、研究者向けで取っつき難い印象がありますが、古いノートPCでも軽快に動作しますし、セキュリティ面での堅牢性は世界的に定評があり、私自身は素人ですが、お気に入りの環境です。ただ、mp3を聴くと音がばちばちするのが、やや難といったところでしょうか。ドライバを現在捜索中。

 UNIX系OSでは、初期状態ではmp3すら聴けないディストリビューションが多い(と思う)ので、次回は、無料でmp3コーデックをインストールする方法をお伝えいたしましょう。

 これで、Solarisで本サイトの拙い自作の楽曲(汗)を聴けるようになったと思います。企業や官庁で、オープンソースが次々と採用されていく中、個人でも学習のためにUNIX系を試して挫折した(私も何度か(汗))人もおみえだと思われますので、少しでもお役にたてればと思います。



それでは、私の作曲した「Spain」が聴けるか否か、お試し下さい。絵はスペインの巨匠ゴヤの作品です。
ラベル:OpenSolaris
posted by 雅 at 15:55| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月26日

最高の贅沢とは

最高の贅沢とは何か。それは自らの趣味を極めること。
たとえお金がなくとも、以下のいくつかはできるはずだ。

流行に流されない。
部屋にテレビを置かない。可能であれば、自分の目で確かめること
(美術関連や自然、歴史などに関する番組以外は、その多くが屑だ。新聞についても、かつて田中角栄が、「信頼できるのは、テレビ欄と株価欄だけだ」と言ったのは、専門家ごとに言うことが違っている事実が証明している)

自分らしくあること。

海でも川でも、どこでも、自分が最も心安らかになれる居場所を見つけること
さらに、自分が本当に好きな文学者や芸術家が現れれば、もはやいうことはない。

たとえささやかあっても、自分の身の回りの品は一生ものに、そして可能であれば、信頼できる職人に特別に発注するのがよろしい。

要するに味わい尽くすということだ。

私自身は資本主義者(資本主義者=拝金主義者というわけではないし、誰も私のことをそう思う人はいないと思う。20世紀最大の経済学者、故M.フリードマン教授のことは、必ずしも一般には理解されてはいない)であり、大量生産、大量消費にはそれなりのメリットがあると思うが、大量廃棄という悪弊まで産みだしたことに対しては否定的だ。結果として、今の人達の多くには「もの」に対する真の喜びが無いのだ。だから、使い捨てになる。勿論、作る側にも責任はある。真の職人に会いたいと思う。

喜ばしいことに、今年は秋に紅葉が見られるようだ。

私にも生まれつきダンディの素質があるようだ。人が何と言おうが最高の自分でありたい。
ただ、モンテスキュー伯爵やジェームズ・ホイッスラーとは違って、弁舌の才能は無いらしい。
(自画自賛(笑)。ダンディズム=ジェントルマンシップではないことに注意。質の悪い私のことをジェントルマンと言う人は絶対に居ない)
言っておくが、女性にモテたいという男はダンディではない。ただの馬鹿だ。愛する一人の女性がいれば十分ではないか。いなければいないで最高の自分を信じて生きていけばいい。最高の自分というが、決して他人を蔑ろにしてはならない。要は自らに誇りを持つということだ。

いずれ、自分の肖像画を載せた一冊の書物をものにしたい。ボードレールやアングルが写真を嫌ったように、写真ではなく、肖像画でなければならない。

私は作家では無いので、装丁は勿論、自分で行うつもり。注文すると非常に高く付くし、私は書物の外観にも非常に拘るタイプだ。


いつになるかは全く以て不明。
それまで生きているだろうか。

マラルメほど書物に関して深く考察した詩人はいないが、彼自身は究極の書物を完成する前に倒れたのである。


黄昏の腐爛の世に散る言の葉に鏡月夜の蒼き露かな


村田雅和

印象派絵画から学んだ色彩の対比、すなわち、補色の効果を自身の短歌に織り込んでみた。


posted by 雅 at 00:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月09日

山中富美子詩集抄

 
以前投稿した山中富美子氏に関する記事を10月25日訂正


森開社より「山中富美子詩集」が刊行されてから、徐々に明らかになってきたようですが、山中富美子の詩には著作権が存在するようです(日本の著作権法では作者の死後50年)。文学的夭折を選んだ彼女はどんな人だったのでしょうか。一人の芸術家に魅せられるとやはりその人について知りたくなるものです。


 参照:Yahooブログ「螺旋の器」

  若くして、突然詩壇から消えた偉大な詩人の生涯は、いずれ明らかにされるとして、さらに驚いたことに、彼女の詩の英訳があるとのことです。忘れ去られた偉大な芸術家が、時を経て私たちの前に突然姿を見せる・・・実に感動的な瞬間です。

願わくは、私の尊敬する故人の生きた思い出に、もしお聴きくださるなら、私の拙い曲ですが『思い出』を贈りたい。


 

 さて、詩集の表紙をめくると、彼女の18歳頃の清楚で非常に可愛らしい顔立ちが印象的。詩の内容に見合った美しい製本だと思います。澄み切った美しいからは、彼女の並外れた知性が窺がえます。富美子は、叙情的な女流詩人の伝統とは全く違った世界にいて、「詩の方法」に関して深い思索のもとに詩を構築した真に偉大な女性詩人だと云っていいでしょう。


 この詩集には、当時の詩の雑誌の印刷にしばしば誤植があったため、全く同じ詩が複数載せられています。どれが正当か今となっては彼女に聞くわけにもいかないので、複数載せることは、森開社の編集者の適切な配慮だといえます。 

 

拙い作品ですが、亡くなった尊敬する全ての芸術家にこの曲を贈りたい。

そして、彼あるいは彼女のことが、再び誰かに語り継がれていくことを信じたい。

 



曲:村田雅和
posted by 雅 at 02:32| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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